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302 無限を信じる(24)福澤諭吉の「二重視点法」と親鸞の「往相還相」

301 無限を信じる(23)ウジ虫の独立自尊――福澤諭吉の二刀流

300 無限を信じる(22) 人は無限と対等になるーー物理学的宇宙観

299 無限を信じる(21) 「生物と無生物の間」にある無限

298 無限を信じる(20) 親鸞、西田幾多郎、梅棹忠夫の無限と虚無

297 無限を信じる(19)だからこそ現代にも通じる「親鸞」と「清沢満之」

296 無限を信じる(18)2つの人生不可解――清沢満之と藤村操

295 無限を信じる(17)二つの平等――国も捨てよ 

294 無限を信じる(16) からだを張った実験主義・信仰の個人主義

292 無限を信じる(14) ボクらは自由で無責任、みんな無限者にお任せ

293 無限を信じる(15) 鴎外漱石より読みやすい「明治の歎異抄」 

291 無限を信じる(13)ボクもノラも絶対無限者なのだ?!

290 無限を信じる(12)子猫の母子 子猿の母子

289 無限を信じる(11)(結核の)先生は痰壺片手にカルタ取り 

288 無限を信じる(10)思うようになるもの・思うようにならないもの 

290 無限を信じる(12)子猫の母子 子猿の母子

286 無限を信じる(8)改革運動は挫折、病身にまつわる人情の迷路

285 無限を信じる(7)病身をおして改革運動に乗り出す

284 無限を信じる(6)エリート文学士も校長職も捨てて禁欲主義へ

287 無限を信じる(9) エピクテトスとの出会い

283 無限を信じる(5)哲学は無限を探求し、宗教は無限を信じる

282 無限を信じる(4)宇宙と人体と無限

278 死の哲学(19)「イワシの頭も信心から」とどこが違うか?

280 無限を信じる(2)童謡に息づく何か大きなものの存在

281 無限を信じる(3)大いなるものーー九条武子 清沢満之

279 無限を信じる(1)言葉も記号も1万年後の人には伝わらない

277 死の哲学(18)老いらくの恋〜〜しずこころなき昨日今日かな

276 死の哲学(17) 3人の学者の妻・それぞれの愛と死

275 死の哲学(16)亡妻の後押しで田辺は西田に再接近した!? 

274 死の哲学(15) 西田幾太郎に傾倒し、やがて対決する田辺元

272 死の哲学(13) 田辺先生は2度泣いた

273 死の哲学(14)結婚直後に気付いた夫人の不健康に苦悩する田辺元  

271 死の哲学(12)現実社会の向上をめざす宗教哲学

270 死の哲学(11)ハイデガーと並ぶ亡き妻

269 死の哲学(10)哲学が初めて取り上げた「死者論」

268 死の哲学(9)〈死〉から〈死者〉へ。時間論の転換

267 死の哲学(8)亡き妻と二人三脚の「死の哲学」

265 死の哲学(6)「実存協同」をボクも実践していた

264 死の哲学(5)二人称の死と小林秀雄

263 死の哲学(4)哲学も死者と語り合えるのか?

262 死の哲学(3)死を棚上げした現代の哲学

261 死の哲学(2)この世に在籍しながら「あの世のルール」を!

260 死の哲学(1)「うめき声」は共通の言葉やルールをはみ出す

259 生老病呆死(40)毒舌・反権威が売り物の「坊さん作家」2人

257 宗教を科学する(43)番外・大地震で女子アナと専門家の問答

257 宗教を科学する(43) キリスト教のフランクル批判

256 宗教を科学する(42)「生きる意味」そのものはない

255 宗教を科学する(41)この世界で神以外に怖いものはひとつもない!

254 宗教を科学する(40) 哲学の神と宗教の神 

253 宗教を科学する(39) 凱旋将軍で150億年かなたの故郷へ

252 宗教を科学する(38) 初めはいやいや、だんだんよくなる聖書?

251 宗教を科学する(37)信仰告白――イワシの頭も信心からーー

249 宗教を科学する(35) 最後に残った話し相手は神だった

250 宗教を科学する(36)寝たきりの自分に神が与えてくれた天職

248 宗教を科学する(34)何がマザーテレサを動かしているのか?

247 宗教を科学する(33) 身障者仲間からも孤立し、実家へ戻る 

246 宗教を科学する(32) そろそろ宗教の出番?

244 宗教を科学する(30)人間の楽屋裏が丸見えの闘病記

245 宗教を科学する(31) 見栄もある、夢精もある。

243 宗教を科学する(29) 「日々を楽しく過ごすな!」

242 宗教を科学する(28)離婚・自殺未遂・多情多恨  

241 宗教を科学する(27) 短髪・ペンダント・胴巻きスタイル 

240 宗教を科学する(26) 負けん気と難病の激突

237 宗教を科学する(23) 強制収容所を上回る新しい苦悩と不幸!?

238 宗教を科学する(24) 創造価値・体験価値・態度価値

239 宗教を科学する(25)死刑囚と態度価値

236 宗教を科学する(22)「快楽への意志」より「意味への意志」 

235 宗教を科学する(21) 強制収容所の苦悩と失恋の苦悩と

234 宗教を科学する(20) それでも人生にイエスと言う

233 宗教を科学する(19) ボクが強制収容所に入れられたら…?

232 宗教を科学する(18)ボクが人生に期待する、人生がボクに期待する

231 宗教を科学する(17)現在を未来から眺めるトリック 

230 宗教を科学する(16)強制収容所の悲惨を救った妻との架空会話 

229 宗教を科学する(15) 『なぜ私だけが苦しむのか』――現代のヨブ記 

228 宗教を科学する(14) 宗教に「あの世」が必要なわけ。

227 宗教を科学する(13) 自分をどこまで小さくできるか!? 

226 宗教を科学する(12)「同情されている」と思う自我と不快 

 225 宗教を科学する(11) 人間以前の状態に戻る安らぎ

224 宗教を科学する(10)宗教団体に属さない人の信仰の意味

223 宗教を科学する(9)安らぎを得るツールとしての信仰

222宗教を科学する(8)「他人を思いやる心」は「進化の法則」に反する

218 宗教を科学する(4)神秘主義者エックハルト

219 宗教を科学する(5)神秘体験――柳澤桂子さんとかモーツアルトとか

220 宗教を科学する(6)「神の前で、神とともに、神なしに生きる」

221 宗教を科学する(7) 「神や信仰」という業界用語のない宗教論

217 宗教を科学する(3)神は信じないが、宗教は信じる!?

216 宗教を科学する(2)宗教の前身は「まじない」だった!?

215 宗教を科学する(1)科学の前身は「まじない」だった!? 

214 宗教と科学(38)落語の小噺に学ぶ宇宙探求の意味

212 宗教と科学(36)〈無〉からポロリと飛び出した宇宙の卵

213 宗教と科学(37)宇宙の「虚数」と蝉の幼虫

211 宗教と科学(35)サラリーマン技術者が裏付けたビッグバン宇宙論

210 宗教と科学(34)アインシュタインの挫折と反省

209宗教と科学(33)神の万能を信じたニュートン力学

208 宗教と科学(32)宇宙人存在説を唱えて火あぶりの刑に!

207 宗教と科学(31)古代ギリシャに突如出現した「合理的宇宙観」

206 宗教と科学(30)「フェルミのパラドックス」

205 宗教と科学(29)この宇宙が人間向きに出来ている不思議 

204 宗教と科学(28)星の死骸がごろごろ…宇宙に明日はない!  

203 宗教と科学(27) 宇宙の2大主役は正体不明

202 宗教と科学(26)宇宙は雨後のタケノコのように増え続けている!?

201 宗教と科学(25)宇宙の始まりを問う愚かさ

200 宗教と科学 (24)宇宙の始まりをイメージしにくいワケ

199 宗教と科学(23)赤ちゃん宇宙の前は…

198 宗教と科学(22)宇宙の起源や自然を人類は解明できるか

197 宗教と科学(21)アインシュタインのこだわり

196宗教と科学(20) 立花隆さんの癌ルポ思索紀行から

194宗教と科学(18)人間の「不完結性」が宗教を誘う

195宗教と科学(19)生き物の一生は「即興劇」

193宗教と科学(17)近代科学が初めて味わう挫折

192宗教と科学(16)水墨画の空白、ガウディの公園の土くれ

191宗教と科学(15)複雑で自由度の高い人間の「脳内マップ」

190宗教と科学(14)宗教的自覚と科学的正解

189宗教と科学(13)宗教を持ち、科学を持つ唯一の動物

188宗教と科学(12)世界は特定のルールで規定できるか?

187宗教と科学(11)「科学」、と称する独りよがり

186宗教と科学(10)人類の脳のクセと限界

185 宗教と科学(9)神や仏を信じねばならない理由!?

184宗教と科学(8)近代科学はなぜ強いか

183宗教と科学(7)ユングとキュブラー・ロス

182 宗教と科学(6)〈信じる〉と〈知る〉

179 宗教と科学(3)近代科学が失った「関係性」

181宗教と科学(5)ドイツの哲学者と日本の弓道師範の対決

180宗教と科学(4)「神話の知」は亡くなった母と自分を結ぶ

178 宗教と科学(2) 近代科学の創始者たちは「宗教」と共存

177 宗教と科学(1)150億年前の記憶を抱くボクたち!?

176 生老病呆死(39)デモクリトス・マルクス・カント

175 生老病呆死(38)アインシュタイン、ホーキング、プラトン

174 生老病呆死(37)さて次はどの星に生まれようかな

173生老病呆死(36)生物に命を与えた「目に見えない第三者」とは?

172生老病呆死(35)人間は自然の一部か?人工自然か?

171 生老病呆死(34)人間と大腸菌とトウモロコシは濃い親戚筋

170 生老病呆死(33)ナズナ(ペンペン草)の瞬間と永遠

169 生老病呆死(32) 世界三大詩人が見た「小さな花」

168 生老病呆死(31)童謡が描く「来迎と往生」

167 捨て犬・イルカ・コンビニの大量廃棄処騒動

166 臓器移植と自然破壊と「仏教」

163 動植物を殺すのは「当然の権利」か「申し訳ないが…」か

165 鳥獣の釣り堀とか、原爆投下とか

164 「魚の活け作り」と「豚の丸焼き」――東西のいのち事情

162 猫の解剖授業と住職先生の無知・ひとりよがり・はったり三重奏

161 「不惜身命」(命を惜しむな)ーー虫を殺してなぜ悪い?

160 佛教学者の「動物のいのち」シンポジウム・基調講演から

159 命のシステムを改組酷使する人間へ豚インフルエンザの反撃

158 「障害者神学」と、動物・生きものたちへの思い

157 生老病呆死(30)聖書の神はランク付けがお好き

156 生老病呆死(29)科学はhowを、哲学・宗教は whatを問う

155 生老病呆死(28) 聖書の神と哲学・一般教養の神

154 生老病呆死(27) イエスの戸籍にこだわる幼稚なボク

153 生老病呆死(26)今度も書けなかった「イエスのふしぎ」

152 生老病呆死(25) その人には見るべき姿も、威厳も美しさもなく

151 生老病呆死(24)いちばん辛い愛の行為をして司祭は転んだ 

150 生老病呆死(23)身代わりを申し出て死んでいったコルベ神父

149 生老病呆死(22) 3つのエピソードで綴る「イエス同伴者論」

148 生老病呆死(21) 聖書最大のナゾーー〈復活〉 

147 生老病呆死(20) 信仰とは90%の疑いと10%の希望

146 生老病呆死(19) ある死刑囚の3つの顔

145 生老病呆死(18) 人類は光の帯、と説く加賀乙彦さんの死後観

144 生老病呆死(17)曽野綾子が世界最古の修道院で見た生死の境界

143 生老病呆死(16)死を考えない主義の先輩を襲った長男の死

142 生老病呆死(15)ボク以外みんな癌の経験者だった

141 スポーツにルール、茶道に心得、宗教に「イメージの跳躍」

140 病苦の妻を見殺しにする自分に苦しんだ外村繁

138 あの世に生まれかわって、また戻ってこれるの?

139 念仏だけであとは、なにもしなくていい、ほっとけの仏教!?

137 捨て子を見捨てて立ち去った芭蕉

136 永遠回帰の謎を残して最後の生き残り「脱兎」も逝く

135 老猫に暖を与えた?子猫、風車をつけられ?目が変形した老猫

134 別れの日々を思い出している秋のベランダ

133生老病呆死(14)苦しみと悲しみ・哲学と宗教

132生老病呆死(13)ベッドで彼は何を思案しているのか

131 生老病呆死(12) 宇宙から来て宇宙へ帰っていく命

T30 生老病呆死(11)考え抜いたあとはただ、ポカーン、としている

129 動物実験(61)野上さん、ごめん。また遁走です! 

128 動物実験(60)私たちにできること 4 神様から預かった10日間の命

127 動物実験(59)私たちにできること 3 「かわいそうがり屋さん」

126 動物実験(58) 私たちにできること 2 餌やり、重圧、不妊手術、出費

125 動物実験(57)私たちにできること 1 揺らいだボクの見栄

124 動物実験(56)歴史のドラマ 11 業務用の檻と消えた猫たち

123 動物実験(55)歴史のドラマ 10 猫の大量詐欺事件

122 動物実験(54)歴史のドラマ 9 ふたつの風景

121 動物実験(53)歴史のドラマ8 農薬・エイズ

120 動物実験(52)歴史のドラマ 7 被爆したサルのパイロット

119 動物実験(51)歴史のドラマ 6 核兵器開発に貢献する動物たち

118 動物実験(50)歴史のドラマ 5 「隠されねばならない存在」

117 動物実験(49)歴史のドラマ 4 「いのち」の大量消費 

116動物実験(48)歴史のドラマ 3 反旗を翻す妻と娘

115動物実験(47)歴史のドラマ 2 まず実験だ、そのあと考えよ

114 動物実験(46)歴史のドラマ 1 創始者ベルナール

113 動物実験(45)果てしない実験的研究 −−凡庸と異常

112 動物実験(44)日本で最初の警鐘ーー専門バカさん

111動物実験(43) 動物虐待罪で初の有罪判決を受けたタウブ博士

110 動物実験(42)吉兆より本質的な「研究偽装問題」

109 動物実験(41)柳澤桂子さんの感性と研究

108 動物実験(40)エピクロスとハイデガー

107 動物実験(39)茂木健一郎さんが蝶の採集をやめたワケ

106 動物実験(38)人間は蠅や蚊の仲間か?それともロケットの仲間か?

105 動物実験(37) 宇宙ロケットと一匹の蠅(ハエ)

104 動物実験(36) 殺すのが勉強と思い込んでいるマニュアル人間

98 実験動物(30) 対象は動物からやがて弱者へ!?人間へ!? 

103 動物実験(35) 安楽死論議 その4

102 動物実験(34) 安楽死論議 その3

101 動物実験(33) 安楽死論議 その2

100 動物実験(32) 安楽死論議 その1

99 動物実験(31) 生殺権は神様だけが持っている!?

97 実験動物(29) 実験犬シロのドキュメント その4

96動物実験(28)実験犬シロのドキュメント その3

95実験動物(27)実験犬シロのドキュメント その2

94動物実験(26)実験犬シロのドキュメント その1

93動物実験(25)飼われていた犬猫ほど実験動物に重宝する!

92 動物実験(24)大学受験会場で耳にしたイヌの悲鳴と絶叫

91 動物実験(23)ピンボケの怪文書

90 動物実験(22)難病患者が捨てた老猫

89 動物実験(21) 市民パワーの高まり 初めての新聞社説に

88 動物実験S 小さな優しさ 大きな優しさ

87 動物実験R 科学盲信派と情緒過剰派

86 動物実験Q 山田太一と毛皮

85 動物実験P 永久に眠れない猫

84 動物実験O税金から費用もーー情報公開し検証必要

83 動物実験N医学教育=単に学位のため、ムダ多い、動物にすまない

82 動物実験Mサリドマイド事件から増えた動物実験

81 動物実験L 苦痛を繰り返さすか、総数を増やすか、どちらが残酷?

80 動物実験K 研究者性悪説を採用する欧州

79 動物実験J 一般の人々に通じる言葉で動物の苦痛を語れ

78 動物実験I 麻酔なしの実験は残酷でも必要だ

77 動物実験H私は神様だ、神様っていいものじゃない

76 動物実験G良心的な国立大學医学部教授の話

75 動物実験F人間と動物の苦痛のシステムが同じだから意味がある

74 動物実験E科学的な意味では動物に苦痛はない

73 動物実験D 仏の女性研究者が京大霊長類研究所を内部告発

72 動物実験C 懺悔ーー犬を逆さ吊りし脳を取り出し目をくり抜き

71 動物実験B 4人の臨床医の証言

70 動物実験A ぼくの洋服はこれしかないの、持っていかないで!!

69 動物実験@ 1通の投書

68 生老病呆死I 旧友への長い手紙 その6

67 生老病呆死H 旧友への長い手紙 その5

66 生老病呆死G 旧友への長い手紙 その4

65 生老病呆死F 旧友への長い手紙 その3

64 生老病呆死E 旧友への長い手紙 その2

63 生老病呆死D 旧友への長い手紙 その1

62 舞踊家 長嶺ヤス子さんの経文(後)

61 舞踊家 長嶺ヤス子さんの経文(前)

60 神を望見し永遠へ歩むノラたち

59 体制側に媚びたがる成り上がり者・元ノラ猫

58 日陰者の脱兎も氷雨の夜に逝く

57 落ちぶれた大旦那・黄色の最期

56 生老病呆死C 老後の寿司屋

55 ノラ猫1匹に警官が4人

54 「かわいいね」と撫ぜてやりたかった

53 子猫と抱き合って暖をとっている?

52 「三毛おばあさん」はセックスも知らずに!?

51 三毛は猫エイズ??

50 子猫しか飼わない主婦の哲学

49 悪女の魅力

48 生老病呆死B定年後の夢(後)ー穏やかにショーペンハウエル

47 生老病呆死A定年後の夢ー養蜂業と温泉旅館

46 生老病呆死@ 右肩上がりの命日

45 明日からはお母さんがあなたの仏様になる(後)

44 明日からはお母さんがあなたの仏様になる(前)

43番外大阪府知事選 変革はいつも少数派から始まった

42   唯識と脳内現象

41 なぜボクはロックフェラーの子どもに生まれなかったのか?

40 障害児を持つことの喜び

39 自分自身の悲しみより耐え難い悲しみ

38  自分でもわからない何かを待っている子どもたち

37  [なぜ?]と問い続けて

36 終わりのない悲しみを抱いて

35 無慈悲な医師

34ノーベル賞作家パールバック

33 わたしは人を傷つけない。愛するだけ。

32  「障害児の母」

31 ある日いなくなったローソンの2匹

30  極チビよ、今生のお別れです 

29 大怪我をしていた極チビ  肝臓を病む黒  

28   虚弱児ーー極チビ  

27     3匹の子猫作戦

26 不妊手術

25 三匹の赤ちゃん誕生

24 太く短いノラの生涯に祝福あれ!

23  捨てられた飼い猫の運命

22  子猫の隠れ家へ誘導する母猫

20 虐殺と早死にーー受難のノラ猫

20  警官出動ーー餌やりは哀れな子猫をふやす

19 さらば花盗人

18 ふたりの詩人ーー金子みすゞ  八木重吉

17 「キリスト教と唯物論」ーー「仏教と科学」

16 われら地球上の共食い仲間

15 サムシングロング(何か間違ったもの)

14 とっておきの人・北森嘉蔵牧師

13 動物とキリスト教

12 女性活動家ーー 「思い切り泣く」「無残さを人間に見せつける」

11 ノイローゼとちがう?

10 もうごはんを探して歩かなくていい…

9 統計の死と個体の死

8 痴呆の母と家族ごっこの日曜日

魚つり、高山植物探しとおもえば…

いじめられている! あんちゃんとチビ

餌より人間が好きな?ノラ猫たち

餌場を移動

ネコのいない世界とは?

ノラ猫誕生

宇宙の中のノラ

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テーマ[302 無限を信じる(24)福澤諭吉の「二重視点法」と親鸞の「往相還相」]
2012-01-20 21:05:41
ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 302

302 無限を信じる(24)福澤諭吉の「二重視点法」と親鸞の「往相還相」

 

とりあえずは現実世界のルールに従って浮世を奮闘する。にっちもさっちもいかない状況にくると、どうせ浮世じゃないか、我らウジムシじゃないか、と虚無のルールに切り替え現実を軽くみなして大胆に明るく乗り越える。ピンチを脱するとすばやく現実世界のルールに戻ってくる。福澤諭吉の二重視点法はまことに重宝である。実際、ボクはサラリーマン時代に何度といわずこの方法、発想を使わせてもらった。ストレス発散にも効き目は保証する。

 

これに似たことを以前、中国の故事で知った。手元に文献がみつからないのでうろ覚えのまま記すが、ある国の若い王が「わが国はどうも沈滞気味だ。このムードを打破する何かいい知恵はないか」と側近たちに尋ねた。重臣の一人が「何事も“軽さ”が必要です」と答えた。

 

たとえば、会議などで若い人たちがいろいろ提案しても、古老格が重々しく「それはすでに○○年前にいわれていたことだ」とか「××の問題点があるではないか」「…失敗した前例がある」などとことごとく否定する。こういう状態が続くと、だれも積極的に発言しなくなる。訳知り顔の古老の権威的な声が重しになり、結局は「現行通り」がいつまでも続くことになる。

会議が軽い雰囲気だと、若手も発言しやすい。議論が盛んになり、新しい考えや施策が飛び出し、結果的に政治は活性化するというのだ。

ボクが小さな管理職についたとき、まず心がけたのはこの教訓だった。実際にやってみてマイナス面も少なくなかったが、プラスが上回ったと思う。

 

福澤の二重視点法に関連してもうひとつ。

無常観と現実世界、二つの視点を、おもしろおかしく、「あの世のルール」、「この世のルール」、と言い換えてみよう。

福澤はこの世を渡るにあたって、ふたつのルールを臨機応変に併用しろ、といっている。

 

ここで連想するのは親鸞の「往相還相」だ。以前読んだとき、往相は「浄土に往く」というのだからまあわかるとして、わからないのは還相だった。仏教辞典には「浄土から現実世界に帰ってきて生きとし生きるすべての存在を救う」とある。十数冊の解説書にあたったが、いずれも字句を追った平凡な逐語訳で踏み込んだ説明がない。まさか幽霊になってこの世に出現せよ、ということではないだろうし、結局、「煩悩があるから完全にはできなくてもこの世で浄土を体験した心境で、他人のために教えを伝え、奉仕する。人間関係の心構えを変えること」という型どおりの理解に終わった。

仏教に縁のないボクにはなんだか平凡で、色あせて、教訓的でピンと来なかった。

だが、いまふと気付いたのだ。これに二重視点法をあてはめると趣旨が若返り、活気づく。

 

つまり、われわれはこの世のルールで、この世を生きているが、しばしば挫折し、立ち往生し、窮地に陥る。世間体やまわりを気にして絶望することもある。だが、福澤諭吉のようにこの世にあの世のルールを導入すればどうだろう。この世(現実世界)を超えたあの世(虚無・無常観)のルール・価値観で見直せば、この世の現実も景色も随分変わって見えるだろう。自分の立ち位置だって一変するのでないか。

 

福澤諭吉は笑っている。

「どうせ浮世じゃないか。どう転んでも大したことはない。お前さんごとき浮世にうごめくウジムシの分際でクヨクヨあくせく気に病んでどうなる」

 

還相の「浄土で悟ってこの世に戻って人々に尽くせ」、というのは福澤流にいえば、浄土の視点でこの世を見ろ、ということでないのか。そうすればじつにすっきりと分かってくる。

 

小さいことにクヨクヨするな、とか、束の間の浮世をはかなく生きる仲間だ、少しは他人の立場もわかってやろう。ついでに動物や植物、むろん、ノラ猫の立場もときには考えてやろう、みたいな広々と、やさしい気持ちになるのでないかな。

 

さて、ボクは身体に異変が生じ、しばらく入院せねばならなくなった。

郊外の新しい大きな病院で、思い切って広めの個室に入った。高層の病室からは街や森が一望に見下ろせる。朝日も夕日も美しい。いまのところ、ボクにとってここは「死」に一番近い空間でもある。(つづく)

 

テーマ[301 無限を信じる(23)ウジ虫の独立自尊――福澤諭吉の二刀流]
2012-01-14 14:45:17
ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 301

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 301

301 無限を信じる(23)ウジ虫の独立自尊――福澤諭吉の二刀流

 

「天の領分に侵入し、その秘密を摘発しその真理原則を叩き、叩き尽して…」と、乱暴とも思える言葉遣いで宇宙・無限に挑む福澤諭吉だが、別の個所では宇宙の広大、精妙、不可思議さに比べれば人間などウジムシ(蛆虫)にすぎないと、『人間蛆虫論』を展開している。

 

「宇宙を観じ、思えば思うほど、いよいよますます、際限なく、ひとり茫然とする。天の無限に比べてなんという人間の卑小。とうてい人間の知恵では計り知ることができない。」

「地球の万物、上は人類より下は鳥獣草木土砂塵埃にいたるまで、なぜ存在するのか、いったいだれが造ったのか、不可思議というほかはない。造り主を次々さかのぼっていっても最終的な造り主はついにわからない。」

 

人間とはしょせん「天の前に無知無力、見る影もないウジムシだ、そいつが偶然にも束の間をこの世にお邪魔し呼吸し、眠り、食い、たちまち消えて跡かたもなくなる存在」にすぎない。――これが福澤の人間蛆虫論である。いわば暗の思想である。

 

ただし、ここから福澤は開き直ったように、逆転の発想をするのだ。

「人間をウジムシと軽視するのは人間の心の本体である。だが、同時にそれを前提にしながらも、この浮き世を精いっぱい独立自尊をめざしてがんばってやろうじゃないか、という心の働きを人間は持つのである」。

〈蛆虫〉から〈独立自尊〉へ180度のUターンである。

人間の圧倒的な無力を痛感する視点をバネに「浮き世を軽く認めて、人間万事を一時の戯れ」とみなすのである。

 

福澤の表看板である実学(物理学・科学)も独立自尊も、さらにその他もろもろの人間的努力の一切が『ひとときの戯れ』とみなす考え方は、仏教的無常観に近い、と小泉仰教授は書いている。

福澤の本心の根底にはこの無常観と人間ウジムシが横たわっている。現世的な実学はそこから派生するひとつの現象なのだ。世渡りの小道具といってよい。

 

福澤は宇宙や天をどうとらえていたのだろう。

人間には了解できない対象と見た、さらにこのような天をそもそも創造した主は何者なのか、さらにさらに、その創造主を創造したのは何者なのか、次々とさかのぼっても、最終の『創造主』にはたどりつけない。これは無限、あるいは超越的存在、とさじを投げている。

この正体不明の最終創造主は、キリスト教の説く人格神的存在ではなく、「唯不可思議に自ら然るのみ」、つまりあるがままの大自然であった。

またもし仏教なら、無常観にしたがって、自力修行や念仏で涅槃や浄土への往生(涅槃や浄土はもとより物理的なあの世、という意味ではない。これについてはいずれ詳しく)を心がけるだろう。だが、福澤はあの世ではなく、この世で、「無常だからこそ、敢えてこの束の間を、より現実的に、より思い切って歯切れよく」生き抜くというのである。

この心境は仏教用語の『本来無一物の安心』(こだわらねばならないような固定的実体などもともとない)に通じる。

 

無常観・人間ウジムシ論・独立自尊のつながりについて福澤はこう述べている。

「人生を戯れと認めながらその戯れを本気になって勤める。勤めるから社会の秩序を成すと同時に、本来戯れにすぎないと思っているからこそ、大事に臨んで動揺しない、くよくよ心配することもなく後悔することもなく悲しむこともない、安心して立ち向かえる」

「人間は本来この世に戯れに来て戯れに去っていくウジムシだ。自分自身を始め万事万物をそのように軽く見ればよい。生まれてきたから死ぬ、ただそれだけの話。」

「浮き世の貧富苦楽、浮沈もただ一時の戯れで、その時を過ぎると消えて跡かたもなくなる。人生は戯れに来て戯れに去っていくだけだが、本当はもはやそういう意識さえ捨て去って無の境地になるのがもっと上等だ」とさえ言い切り、『一切虚無の間に仏徳がある』という表現も使っている。

 

この間の事情を小泉仰教授は『福澤の二重視点法』というキーワードを使って説明している。

「現実世界の視点に立って真剣に生き抜いていこうとするとき、人はしばしば挫折し逃げ道のない限界状況に陥る。そのとき福澤流でいけば別の視点に一瞬のうちに移り、本来この世はうつろい易い虚無の世界であるという見方に立つ。自分の苦悩など本来戯れにすぎないと軽くみなして乗り越えるのだ。乗り越えた後、再び一瞬にして最初の視点に立ち返り、現実世界を邁進する。真剣に人生を生きながら一方で人生を本来戯れであると自覚している…。」

 

この二重視点法を福澤自身は『本来無一物の安心』と呼び、「浮世を捨てることはすなわち浮世を活発に渡る根本」と書いている。

クリスチャンでもある小泉教授は「こうした悠々自在の福澤の思想は仏教的無常観と独立自尊・実学という二つの見方を統一して安心法をつくりあげた。科学万能を信じつつも、人生を戯れと知り、戯れを真剣に生き抜こうとしたものであった」と結論付けている。(つづく)

 

テーマ[300 無限を信じる(22) 人は無限と対等になるーー物理学的宇宙観]
2012-01-06 15:51:08
ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 300

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 300

300 無限を信じる(22) 人は無限と対等になるーー物理学的宇宙観

 

宗教を軽視していた福沢諭吉だが、晩年になってほんの少し仏教を評価し始める。

 

「神道は宗教の体をなしていない。儒教ごときはいまの人心を維持できない。キリスト教は輸入されたばかりでまだ人々に信用されていない。日本人の信仰は数百年の歴史を持つ仏教によるしかない。因果応報などの理は深遠高尚で学者にも通用するし、地獄極楽の説は人々を教育するのに向いている。釈尊の教えは現代人にも通用するものだ」

 

とはいえ、自身の信仰とは関係ない。あくまで自分は一段上において、功利主義の立場から宗教を品定めしている感じがにおう。

 

仏教については僧侶の腐敗、怠慢が布教不振の原因だと決めつけ、宗教法を制定して政府からカネをせしめようとしていると批判している。

「仏教者は人の財、世の力に依存せずに、自分の力で、自営自活の道を開け」この文句は福澤得意のキーワード〈独立自尊〉を仏教関係者にも適用しているのだろう。

ただ、親鸞については「非凡の見識をもち人心を達観した。僧侶の腐敗を一掃し、親鸞に戻れ」と評価している。その具体的な理由は明らかでないが、親鸞が自らの名利を顧みず、信ずる道を実践したことが、福澤の実学精神と通じるのかもしれない。

 

ここまではとくに珍しくない。

福澤のユニークなところは西洋流の実学思想(自然科学・社会科学・人文科学)を展開しながら、同時に宗教性をにじませているところである。

 

福澤は西洋文明の中でもとりわけ物理学を重視し、ベーコン、デカルト、ニュートンの名前をあげながら「西洋の学術の目的は万物の理を明らかにし、人生を便利にすること、そのために人々に知力の限りを発揮させることである」とし、科学理論によって人間はいつか宇宙全体、自然、人間社会、人間の心もすべてを知り尽くす日がくる。そのとき、人間はまさに天と並び立つだろうと『文明論之概略』に書いている。

さらに晩年になるとこの物理学的宇宙観はエスカレートする。

「(物理学でもって)天の秘密をあばき出して我が物とし、一歩一歩人間の領分を広くして浮世の快楽を大にする」

「天の力は無限であり、その秘密も無限だが、人間の知性も無限に発達する。物理学を究め、これを利用すれば、人間が天の秘密である自然の真理原則をすべて把握しつくすことができる。」

「(物理学は)天の領分に侵入し、その秘密を摘発し、真理原則を叩き,叩き尽して宇宙を我が手中のものとなす日がくる」

 

物理学が我が物とするのは宇宙だけでない。人間精神のいっさいも解剖分析によって把捉できる。もはや自然界と人間社会の区別、物質と精神との区別も不必要になる。人間は自らを含めた宇宙全体を物理学的真理原則によって統一的に理解することができる。

物理学も科学も社会も進歩し、人間もまた限りなく進歩する。

「進歩また進歩、改良また改良、聖人はいくらでも出現、極端にいえば、世界中の人がみな孔子とニュートンの知識を兼ね備えた人たちであふれる。病気も克服し、無病となる。こんな黄金世界の時代が必ずくる。これは空想ではない。」と言い切っている。その時代を福澤は「天人合体の日」と名付けた。

(以上『福翁百話』)

 

物理学をツールに、宇宙の森羅万象、人間を含むいっさいの、物質も精神も知り尽くし、コントロールできるというのである。人間はみんな聖人君子になるであろう、病気もない、幸福な社会が到来するであろうという。人間は科学によって、天(無限)と対等になれる。

現代からみると、こっけいなくらいの楽天主義だ。

しかし、これは福澤のひとつの顔である。「明の思想」である。

福澤にはもうひとつ別の顔がある。「暗の思想」である。

(つづく)

 

テーマ[299 無限を信じる(21) 「生物と無生物の間」にある無限]
2011-12-30 10:17:07
ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 299

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 299

299 無限を信じる(21) 「生物と無生物」の間の無限

 

人は自分の及びもつかない「超越」を意識したとき、宗教や哲学への思いが芽生える。むろん、超越は宇宙とか無限とか、大きなものとは限らない。

「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一著)は限りなく無生物に近い極小の生命のシステムが描かれていて評判通りの面白さだった。

 

こんな個所がある。

「海辺に砂でつくられた城があるとしよう。波と風は砂の城壁を絶え間なく削り取っていく。ところが城は相変わらず同じ姿を保っている。

なぜか。われわれの目には見えない海の小さな精霊たちが崩れた壁に新しい砂を積み、開いた穴を埋め、直しているからだ。いや、むしろ精霊たちは壊れそうな場所を波や風より先に修復し補修しているのである。

ここで重要なことは城の砂は数日前のものとは違う。ことごとく新しい砂に入れ替わっていることだ。砂粒はどんどん流れ、動き続けている。この城は実体としての城でなく流れが作り出した『効果』として見えているだけなのだ。さらにいえば、城の砂を絶え間なく分解し、再構成している精霊たちもまた砂粒からつくられている。彼らの何人かは元の砂粒に還り、何人かが砂粒から新たに生み出されている。」

 

砂粒を水素、炭素,酵素、窒素などの元素、精霊たちは生体反応をつかさどる酵素や基質におきかえると、この砂の城のたとえは、生命のありようを正確に記述しているのだそうだ。

生命は元素たちのもたらす『効果』という言い方はちょっとしゃれている。ほかにも「(生命とは)一時的な『流れそのもの』、分子のゆるい『淀み』でしかない」といった表現もある。

 

アウグスチヌスは「ときは永遠の影だ」といった。砂たちが相互に作用しあって形作るつかの間の効果・流れ・淀み』という命の仕組み。そのはかない点滅は永遠の何を映しているのだろう。この考え方は前回の哲学者西田幾多郎や滝沢克己の「私という人間は絶対者の表現点として刻々に設定されている」という表現に共通するものがある。同時にこれは仏教の『無』『空』『一期一会』のイメージだ。

 

 宮沢賢治は無限の存在を深遠な童話のように描いている。

「わたくしたちが柄杓で肥を麦にかければ、水はどうしてそんなに、まだ力も入れないうちに水銀のように青く光り、たまになって麦の上に飛び出すのでしょう。また砂土がどうしてあんなに、のどの乾いた子どもの水を呑むように肥を吸い込むのでしょう。もうほんとうにそうでなければならないから、それがただひとつのみちだからひとりでどんどんそうなるのです」(「イーハトーボ農学校の春」より)

 根本的な永遠・絶対的主体のもとで、人間の営みはこの麦や砂土と同じようなものかもしれない。決して自分の力で存在しているわけでないのだ。

 

 本ブログ295回で近代的な啓蒙期の合理主義者、宗教に無縁な実学主義者として福沢諭吉を取り上げた。しかし、彼もまた人間など天空に比べれば虫けらのようなものだと言いきっている。超越のもとで人の一生など芥子粒だと譬えている。ただ一方で、いつか人類は「超越」と肩を並べ得る存在になると、こっけいなくらいの楽天主義を謳いあげている。福沢の超越への姿勢は二重視点になっているのだ。

 ボクは現役のころ、福沢の「人間蛆虫論」が大いに気に入って、この考え方を軸に、仕事上の自分のごますりや卑屈、ずるさを開き直ったものだ。

 

 福澤は人間の「独立自尊」をモットーにし、無信仰が看板だった。しかし、晩年は独自の宗教的心境に到達したともいわれている。『福澤諭吉の宗教観』(小泉仰著)を参考にこのあたりの事情を簡単にスケッチしておこう。

 『福翁自伝』には少年時代の福澤の有名なエピソードが描かれている。近所の稲荷社の中の本体の石を、自分の拾った石と取り換えて、それと知らずに参拝する人たちを見てほくそ笑んでいたという。この姿勢は基本的に生涯変わらなかった。

 福澤は単に無神論、無信仰というより、考えようによってはもっと性質が悪い。宗教を功利的、政治的に利用することを計算したのだ。

 

 彼の文章や演説からそれらしいものをいくつかを拾い出してみよう。

 ○「自らを頼む力のないものは他を頼る。すなわち他力の信心ともいう。だから、禁酒にしても禁賭博にしても、神仏に向かって誓うのだ。こういうところには宗教の効用がある。」――清沢満之が聞いたら、なんと浅薄な「他力信心」の理解度であることか、と悲しい顔をするだろう。

 ○「政府は人を治めるのに法律をつかう、人の心を治めるには宗教に限る。」

  「もしわが国に宗教がないのならキリスト教を選ぶかもしれない。しかし、いまはキリスト教が宣教によって信者が急増するのを防ぐべきだ。仏教を防波堤にしよう。なぜなら仏教も元は他国からきたものだが、すでに千年ほどたっており、わが国の宗教といってよいからだ」

――自分は仏教を軽蔑しながら、他方で国民の道徳教育に利用しようとの功利性がみえる。さらにキリスト教と仏教を戦わせて自分は漁夫の利を求めようとする策謀さえ感じられると福澤諭吉協会理事でもある小泉・慶応大名誉教授は指摘する。(つづく)

 

テーマ[298 無限を信じる(20) 親鸞、西田幾多郎、梅棹忠夫の無限と虚無]
2011-12-23 11:39:44
ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門  298

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 298

298 無限を信じる(20) 親鸞、西田幾多郎、梅棹忠夫の無限と虚無

 

親鸞という宗教家は「自分だけよければよい、のエゴイストなのだろうか」とボクがいぶかったもう一つの場面。

それは歎異抄の【後序】に出てくる「弥陀の(本願を)よくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」のくだりである。広く大衆を救う本願を立て長い修行を重ねて願いを達成したとされる阿弥陀仏は、じつは自分親鸞だけのために本願を立てたのだ、といっているのである。親鸞以外のほかの人たちは関係がないというのだろうか。

 

このくだりはこれまでも信者の間でいろいろ物議をかもしたらしい。西田幾多郎やカール・バルトの影響を受けた哲学者で、キリスト教神学者、マルクス主義にも詳しい滝沢克己はこの個所を重視し、著書『歎異抄と現代』の冒頭に、まずこの問題を取り上げている。

 

ちょっと読むと「幾万幾億という人間の中からとくに選ばれて真実のみほとけの救いを受けた至福の人、世界にまたとない無上の幸せ者、それが自分だ」といっているようにみえる。だが、親鸞一人のため、というのはどういう人間を指しているのだろうか。

選別に慣らされた現代人には思いもおよばぬことだが、親鸞自身の能力とか、業績とか、身分とか、境遇とかによって親鸞が選ばれたわけではない。

歎異抄の他の条項にはそれがはっきりうたわれている、と滝沢はつぎのように書き写している。

 

『弥陀の本願には、老少善悪を選ばれず…』(第一条)

『うみかわにあみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまにししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなひをもし、田畑をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり。…』(第十三条)

『聖人のおほせには、善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり』(後序)

 

殺生する漁師や漁民も、農民も、職業や年齢や身分にかかわりなく、学問のあるなしや善人悪人を問わず、だれもに救いの本願がかけられている。親鸞はとくに選ばれたわけではない。大衆の中の、ごく平均的な一人にすぎないことが強調されている。

個人と人類全体がひとつに合体している。矛盾しないのだろうか。これは282回に紹介した、清沢満之の、無限と有限の図式に似ている。滝沢は「絶対に代替不可能なこの私ただひとり」と「絶対に私ではない、この私と同様に代替不可能な他の人間」は共通する普遍のものだ、とむつかしい、理屈っぽい言葉遣いで個人の尊厳と万人の救済を説明している。

 

個人と人類がひとつといえば、歎異抄5条は「生きとし生きるもの、一切の有情はすべて父母兄弟だ」とうたいあげている。だから親鸞は「父母の孝養のための念仏など唱えたことがない」といいきっている。

肉親の愛に薄かったボクは中年の頃、はじめてこの文句に触れたとき、とても心強かった。ボクには肉親はいなくても、みんなが仲間なのだ、人類はひとつだ、愛に包まれてみんな一緒だ、と小躍りする思いがした。その後も、それまでと同じように、裏切ったり、裏切られたり、喜びと悲しみと幻想と幻滅を繰り返しているけれど、それでも、はじめのあの時の連帯の思いはいまも新鮮によみがえってくる。

 

余談だがーー親鸞は小さいころ、父母に別れ、肉親の愛を知らずに成長した。中世のすぐれた僧にはなぜか親や肉親の愛を知らずに育った人が多いらしい。法然、道元、明恵、蓮如、一休などなど。

明恵上人は「自分のために」とか「だれそれのために」とお経をあげてほしい、祈ってほしい、という頼みには一切応じず、「私はいっさい大衆の幸せを念じている、そのなかにはあなたも当然入っている」と答えたそうだ。肉親の情に接することが乏しかった分だけ、孤独の心、さみしさは大勢の他者との連帯へ心が広がったというわけだ。

だが、またまた余談だがーー孤独は何も肉親との関わりだけで発生するわけでもあるまい。

 

その事例はいくらもあるが、ここでは明晰でドライ・論理的で知られる学者、梅棹忠夫の述懐を引用してみよう。

社会生活から脱落して家にこもっているあいだ、友人たちが見舞いに来て大学や世間の動きを聴いているうちに、わたしは世の中がなにごともなく進行していることに気がついて愕然とした。自分という存在が、なんの意味ももっていないことをおもいしらされた。なんとなく自分を中心に世界を回転させている。それがじっさいは、自分抜きで 世界は動いているのだ。私は深い虚無感を抱くようになった。」

 もうひとつ。

「私は人類全体の一個体に過ぎない。人は長い間生きて来たなかで、空空漠々の中に消えていく。そういう一個体としての自覚がわたしにはある。」


余談ついでに、滝沢はまだ無名のとき、日本の代表的な哲学者西田幾多郎について論文を発表し、39歳年上の西田は「あなたほど私の考えを理解してくれている人はいない」と滝沢に手紙を送ったというエピソードがある。西田哲学の基本概念のひとつ『絶対矛盾的自己同一』も、清沢の『有限と無限』、親鸞の『一切の有情と肉親』に通じるところがある。滝沢の説明をボクが乱暴だが、要約して紹介しておく。

 

「自分は自分だけで存在しているわけでない。自分の成り立ちの根底は自分ではつかめないが、そのときすでに自分は(無限の主体に)捉えられている。有限の自己と無限の主体が矛盾のままで直接にひとつであるという根本的な事実を西田は『絶対矛盾的自己同一』という言葉で表現した。無限の主体――それは永遠の生命、愛、光であるなにものか、が私をつかんでいる。私はその絶対者の表現点として刻々に設定されている。」